財閥編・47回安田善次郎⑮
善次郎は大正と年号が改まった時に彼は「身家盛衰循環図系~しんけせいすいじゅんかんずけい」と呼ばれるものを書いて家族に示しています。それは人間の陥りやすい落とし穴と進むべき道を二文字の言葉で表していて解りやすく子々孫々まで戒めとしたものですが、現在の私達にもとても大事な指針だと思います。こんな書き出しから始まります。まず「困窮」の中にいる人間は「発憤」するか「挫折」するかに分かれる。「挫折」した者は前に進めないが、「発憤」した者は「勤倹」を旨として生活し、やがて「富足」ふそく~(十分豊かになる)の状況となる。ここで分かれ道が待っている。「修養」の道を選んだものは「喩義」ゆぎ~(真理の追求)に進み、「清娯」せいご~(教養ある趣味)を楽しみながら「安楽」の境地へと至る。ところが「富足」の段階で「傲奢」な生活を選んだものは、「喩利」ゆり~(利益の追求)に走り「煩悶」し、やがては最初の「困窮」の状態に戻ってきてしまう。日々、自分はどうあるべきかを禁欲的に問いかけ続け、求道者のような人生を歩んできた彼に死角はなかった。、事業家というのは壮年期に大きな成功を収めても、晩年に至るまで成功し続けることは極めて難しいです。でも善次郎は晩年になっても、怖いほど儲け続けました。伝説的な成功者の中で、ほかの人間のやっていることをそのまま真似して成功した者など1人もいません。他の銀行が不景気だとみて融資しを抑制すると安田銀行は貸し出しを増強し、逆に彼らが好景気だから貸し出しに力を入れると安田だけは締めてかかる。でもいざふたを開けてみると、安田銀行の一人勝ちとなっている。善次郎は業界でなれ合うことを嫌いました。明治新政府が順調に国家経営を進めていけたのは、善次郎という実に頼りになる金融界の大立者の存在があったればこそです。真の姿が世間に伝わらなかったのには理由が有ります。陰徳の人であったからです。その為、危機が過ぎ去るとすぐに恩を忘れ去られ、今度は逆に金の亡者だとののしられました。おそらく世間から誤解を受け続け「憎まれ者で結構」と開き直った代償は大正10年の死へと繋がります。でも確実に、恩義を感じている方も、沢山いました。今回の写真は、ある企業の本社に飾られている善次郎公の座像で、座布団を二枚引いていますが、並んでいる創設者の座像は座布団が一枚だそうです。善次郎公に敬意を示しているからだそうです。
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