財閥編45回・安田善次郎⑬
明治42年(1909)1月、満70歳を過ぎていた善次郎は引退を表明し、安田銀行の監督を善三郎(次女・暉子の婿~ジョン・レノンの妻・オノ・ヨウコの祖父にあたる)に譲って顧問の地位に退いた。このとき頭取は長男の善之助、取締役は三女・峰子の婿の二代善四郎と妹・清子の次男・善衛だった。しかし、引退を表明したとはいえ、善次郎は保善社の総長であったので「表面の動きはせず、必要な場合には意見を述べる。また、健康なうちは何かと働くつもりである」監督辞任後に語っています。監督を継いだ善三郎はどんな人だったのでしょうか?法学士の肩書を持ち、丁稚あがりの店員ばかりの銀行に入ってきたので、それだけでも人目を惹きましたが、肩書だけではなく眉目秀麗でもありました。当代実業家養子物語の記事の中で、「財界で五本の指に入る人物」とも褒めています。ところがそれから2年後、善三郎が関わることで安田家にお家騒動が発生します。勤倹質素を信条とする安田家の家風に合わない行動が増えたこと、又事業経営の面でも総長の善次郎を差しおいて独断専行に出、同族との和合や意志の疎通を欠くに至ったことから、老翁善次郎は、安田家の将来を考えてやむを得ず離脱を決断しました。しかしこの問題はかなり長期にわたるトラブルになり、何人かの著名人が調停に動きました。約2年近くかかりましたが、善三郎は安田家からの離脱が決まりましたが、既に安田家の当主だった為、彼の地位はそのままとし、善次郎夫妻が別に一家を起こし安田家の宗家とする法規上の手続きを取りました。善三郎は、その代わりお金と家をもらいました。二百万円(現在の百億円)、、、、それは少ないという人もいたとか?この一事引退した時に、全銀行員3000余人に慰労のしるしとして自分の財産を分与しました。「これを種金とし、毎月収入の5%を10年間積立貯金してほしい。自分はこれを克己貯金と名付ける」と論達しました。凄いですね。彼はとても芸術を好み、自身も絵や書を書かれました。現・安田不動産・大磯寮の邸宅内に飾られている絵や書は全て善次郎の直筆です。今年は秋に観光協会のイベントで、安田邸のお月見があったら是非参加して確認して下さい。芸術家のスポンサーもしていて、大理石彫刻で有名な北村四海は現・大磯寮の庭園内に「安田善悦座像」「安田翁立像」床の間に飾ってある座像も彼の作です。彼にも「克己貯金」の通帳を渡しました。善次郎は、そんな人です。
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