l 財閥編39回・安田善次郎⑦
l 善次郎が、千両分限者になった過程が早く又エピソードが多く、選択して語ります。両替商としての確実な目利きと、決断力が彼を作ります。「三つの誓い」の中に、住宅用には身代の十分の一以上はあてない、という項目が有りましたが、安田財閥にとって聖地で、関東大震災が起こるまで安田銀行本店(現・みずほ銀行小舟町支店)が置かれ、この地を当時430両で売りに出ていました。日本橋の目抜き通りとしては、安い値段でした。所持金は1,800両、例の誓いでいけば住宅用は一割の180両しか充てることが出来ません。善次郎は、後ろ髪を引かれたが諦めることにしたと、後に語っていますが、これが彼の事業に失敗が無いという要因なのですね。その間に、禁門の変や長州征伐などが起こり、年号も元治から慶応に変わり、世の中が騒然としていた時期だったので、不動産は売れにくかったのでしょう。しかしその間に、善次郎の商売は順調に拡大して、所持金は4,300両を超えるに至っていました。慶応2年(1866)4月14日、日本橋小舟町3丁目10番(現・日本橋小舟町8-1)の家は、善次郎が買えるのを待っていたかのように彼の物になりました。現在もこの周囲には田中貴金属・日清製粉・曙ブレーキなど富士銀行の大切な取引先が軒を連ねています。ここから又彼が大きく商売を広げていく道が開けます。日米和親条約・日米修好通商条約の締結により、諸外国との間の貿易が開始されるようになると日本の金がどんどん外国に流出しはじめた。それは金と銀の交換比率が我が国と海外とでは異なっていた為、外国は金・1に対して銀・15から20、日本は金・1に対して銀・6ないし7で相対的に銀が割高で金が割安であったため、100万両ほどが海外に流出してしまいました。国家としては大きな損失でした。ここで「太政官札」「金札、正金の等価交換」額面通りの価値に薦めたい。新旧金貨の引換業務を安田商店が政府御用を引き受ける出発点となりました。この時に、安田商店は莫大な利益を手中にしますが、これは単なる幸運で手にした利益ではなく、情報収集と卓越した先見性によって、危険を承知の上で大きく相場を張っての勝利でした。そして何よりも彼は、明治新政府の苦しい時期を支え、その信頼を勝ち得たのでした。彼という人物の克己心の強さを物語るものに「日記」が有ります。彼は明治5年(1872)1月1日以降、旅行中も携帯日記を持ち、死の前日(82歳)までの49年間、毎日几帳面に書き続けました。
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