4大財閥の初回として、三菱財閥(始祖・岩崎弥太郎・弥之助・久弥・久弥の長女・澤田美喜)を語りましたが、これから語ります、住友・三井・安田更に8大財閥・15大財閥と続きますが、三菱だけ自分の姓を冠名にしていません。今回三井に進もうと思っていたのですが、三菱があまりにも強烈でしたので、次回から財閥編はあくまでも大磯に関わる、本宅を構えたり、別荘をもたれたりした方を皆様にお知らせする語りですが、今回の住友寛一は厳密に言いますと、財閥では有りません。何故かというと、住友本家・15代の住友吉左衛門友純(ともいと)が父、母は住友吉左衛門友親の長女・満寿の長男として生まれましたが、本来は16代を継ぐべき人でしたが、病弱で繊細でその性格故に大正5年(1916年)分家した人です。大磯には、昭和7年(1932)に東小磯池見堂近くに別荘を構えましたが、財閥を継ぎませんでしたので、住友財閥は大磯には住んでいませんので、住友寛一を外そうと思いましたが、住友財閥は偉大な財閥ですので、変遷はお話したいと思いました。次号に語る、三井財閥・11世北家・三井八郎右衛門高棟は城山公園に昭和23年まで住まわれていましたし、安田財閥・始祖・安田善次郎も大正10年迄、王城山麓に住まわれていました。寛一は弟が住友を継承し、16代当主となった住友吉左衛門友成です。叔父に徳大寺實則・西園寺公望(大磯に隣荘という別荘が有ります)がいます。寛一は芸術宗教に惹かれ、若くして絵画に傾倒した為、廃嫡されました。住友の始祖は、とても古く桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目の子・小太郎(忠重)が父の姓と名をとって「住友」の姓を称して室町将軍に仕えたのが始まりです。住友家には、住友家の「家祖」と、住友家の事業の「業祖」の2人がいます。住友政友(家祖)には一男一女が有り、息子の政似には「富士屋」の跡を継がせ、娘の婿養子に蘇我理右衛門(業祖)の長子・理兵衛友似(住友友似)を迎えました。明治期に入って、住友事業は12代友親、その子13代友忠の下で営まれたが、友親・友忠が1890年に相次いで亡くなります。ここで、男系相続者が途絶えてしまう悲運に見舞われます。次号で、もう1回だけ住友を語ります、何故かというと三井家に実は何人も住友家の女性達が嫁いでいます。友純の妻・満寿の妹・楢光は、三井十一家の一つ「三井永坂町家」の八代目当主・三井高泰(守之助も大磯に別荘有り)に嫁いでいて、三井の5家と閨閥が拡がっているからです。
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