1890年、時代の変革に遅れをとった三井銀行は、この難局を乗り切るために、中上川彦次郎に白羽の矢が立ち、彼は不良債権の整理から着手し、経営の近代化を図りました。改革を推進する人材を確保する為多くの学卒者(特に慶應義塾OBや新聞記者出身者)を中途採用しました。今まで政商的だった三井の空気は一変します。三井銀行の不良債権は、多くが政治家や有力者との癒着で回収不能となっていましたが、中上川は学卒者出身の行員を差し向けて厳しく督促し、断固として回収しました。三井家では、鉱山業に投機する事を禁止していましたが、工業立国近代化に寄与すべく、工業化路線を積極的に推し進めました。中上川は三井物産の下にあった鉱山事業を統括して、1892年に三井鉱山合資会社を設立し、三井家同族が直接出資する形としました。中上川の工業化路線は、資産の保全を第一に考える三井家の批判を受け、晩年の中上川は孤立し、1901年(明治34年)に不遇のうちにこの世を去りました。前年に、43歳になった高棟は三井同族会の議長に就任しています。中上川の死後は、三井家と井上馨の信任が厚かった三井物産社長・益田孝が、事実上、三井財閥の総師となりました。益田孝(1848~1938)は佐渡奉行所の役人の子として生まれ、父が箱館奉行所に抜擢された時、彼は同所で英語を学びます。1863年に幕府が欧州使節団をフランスに派遣すると父に従って同行し、帰国後、幕府が倒れた為、横浜で商売を始めた時に、井上馨・五代友厚の推挙で造幣局に入ります。その後、井上と行動をともにし先収会社で貿易事業を始め、同社が1876年に三井物産になると事実上のトップになりました。益田は、三井の事業を統括強化する為、1902年に三井家同族会に管理部をおきその専務理事となり、事業の再編・方針転換を行った。益田は、三井家同族会管理部を法人化して持ち株会社・三井合名会社を設立し益田は三井財閥の事業・組織を体系化した事を見届け、1914年に勇退しました。後任には、三井鉱山の団琢磨を推挙します。ここまで、随分入り組んだお話になっていますが、どの財閥もそんなに簡単に、維持管理が出来た訳では有りません。大きくなればなるほど、特に団は、三井本家当主・八郎右衛門高棟は団に並々ならぬ信頼を寄せ、口うるさい分家を抑えて、団を支援していました。昭和7年に起きた、血盟団事件の犠牲になり暗殺されました。この事が、きっかけになり高棟は現役を引退することになります。次回。
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