前回から、引き続き高棟を語ります。何故、高朗の養子に五十之助が選ばれたのかは不明ですが、文久3年(1863年)に順養子になった4年後の慶応3年(1867年)、10歳の長四郎(順養子になって改名)は、代々の三井家当主がそうであるように、「高」の一字を含む「高棟」の名が与えられ、総領家第十代当主としての座が約束されました。徳川の時代が終わり、元号が明治に変わったその年(1868年)、11歳の高棟は京都の本店に出勤することになります。これは将来三井を率いていくための修行の第一歩でもありました。そして、明治5年15歳の時に、井上馨や渋沢栄一の勧めでアメリカに2年間の留学をします。渡米の目的は、海外への見聞を広めると同時に銀行業務などを勉強するためでした。因みに、明治5年は米国の銀行制度をモデルとした「国立銀行条例」が制定され、翌年には日本初の「第一国立銀行」が発足して、初代頭取に渋沢栄一がついています。2年間の米国留学を終えて帰国すると、明治9年に発足したばかりの三井銀行(現・三井住友銀行)に入行します。この年は、旧三井物産も設立されて、近代における三井財閥発展の足場が固められた年でもありました。9年後の明治18年(1885年)3月、高棟は養父であり実兄・高朗から家督を相続し、総領家当主となり、三井八郎右衛門高棟を襲名し、以後昭和8年隠居するまでの48年間にわたり八郎右衛門高棟を名乗りました。しかし、いきなり三井各事業のトップになれたわけではありませんでした。襲名から2年後の昇進でも、三井銀行の役職は、精算課長に過ぎなかったようです。総領家当主として高棟が尽力した事績の代表的なものには、三井家憲制定・三井合名設立・理事長制度などを厳しく定めたものであり、その導入などが挙げられます。ここで、三井家は色々な財閥との姻戚が挙げられますが、高棟の最初の妻は、明治16年に大阪の豪商・加島屋の広岡家(浅)の養女・貴(幾)登と結婚しましたが、残念なことに8年後の明治24年に死別します。貴登との間に長男・高寿(たかかず)がいましたが、1歳5か月で亡くなり、4年後に妻・貴登も亡くなりました。翌年に再婚・旧富山藩主前田利声(としかた)の長女・苞子(もとこ)と再婚。二男五女をもうけます。苞子は、旧大名の出で、短歌・茶道・華道・お琴などをたしなみ、13歳という年の差は有りましたが高棟引退後の城山荘での暮らしは常に一緒でした。
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