大磯町には、三井十一家の総領家(北家)十代目当主・三井八郎右衛門高棟、(永坂家)八代目当主・三井守之助、(本村町家)初代当主・三井養之助が、別荘をもちました。他にも、ご縁の有る方がいますが、今回はこの3人の方を中心に、この順番でお話をしていきます。今回語ります高棟は、別荘を構えました跡地が現・城山公園です。現存する建物は、北蔵と東蔵のみで、郷土資料館のエントランスホールには城山荘本館広間で吹抜上部を飾っていたものが展示されています。是非お尋ねください。ここで、本題に入る前に城山公園(じょうやまこうえん)と読まれる方が少なく、しろやまと読む方が結構います。折角ですので、簡単に城山の名の起こりをお話しします。戦国期に山城(こいそじょう~小磯城)が有ったことに起因して、じょうやまと呼ばれます。「鎌倉大草紙巻五」に関東の争乱・康暦元年(1379年)から文明11年(1479年)の様子を書いた記録が有ります。その後、山内・上杉家の関東管領争いから、長尾景春の家来・越後五郎四郎(小磯の山城に立て籠もる)と、太田道灌が戦いその傷を洗い流した川として吉田邸の手前を流れる川を「血洗い川」そこにかかる橋を「切通し橋」と呼び、太平洋岸自転車道にかかる橋が「血洗い橋」です。高棟が住む以前は、5代軍医総監の橋本綱常の別邸で、彼は大正天皇のご典医で、天皇も皇太子の頃、よくこの地を訪れています。この地を、譲り受けたのが明治28年と言われています。では高棟はどんな人生を歩んだのでしょうか。安政4年(1857年)の正月に京都で生まれました。この年は、日米修好通商条約の交渉が始められた年です。三井越後屋の出発から財閥解体が議決されるまで272年に及ぶ長い歴史の中で、三井家が最も繁栄したのは明治の半ばから昭和初期にかけてです。三井家にとって最も華やかなこの時代に当主の座にいたのが、三井八郎右衛門高棟です。その終の棲家が大磯の城山のあの地でした。三井家第八代当主・高福の8男として生まれ、高福は家祖・高利と同様の子沢山で、高利と全く同じ十男五女をもうけています。高棟はその中の13番目の子であり、幼名は五十之助と言います。文久3年(1863年)6歳の時、長兄である高朗の順養子となって、長四郎に改名します。三井家第九代当主として家督を継ぐ高朗には子がいなかったからであり、この時点で高棟は総領家北家の後継者と決定づけられました。では、次回に。
コメントをお書きください