高棟(幼少期はまだこの名を継いでいませんが、高棟でお話します)が、7歳から思春期を迎える15歳の頃、実は三井は最大の危機を迎えていました。今回は三井を支えた重要人物達のお話をします。その中には、大磯に別邸を持った人たちも何人かいます。では幕末から、明治維新にかけて江戸幕府は、長州征伐等の莫大な経費支出に悩み江戸の富商に御用金を課したが、中でも三井の割当額は大きく1864年から5回にわたり計266万両という法外な御用金の上納を言い渡しました。しかし、三井は大名貸し(大名への貸付金)の不良債権化等により営業状態が悪化していました。そこで三井は、勘定奉行・小栗上野介忠順(ただまさ)と親交のあった三野村利左衛門を外部から起用し、三野村は小栗に三井の窮状を説明して、減免に成功しました。明治維新後、政府は大隈重信を抜擢して貨幣政策にあたらせました。大隈夫人は旗本出身で、小栗忠順のいとこでした。そこで三野村は大隈とその部下であった井上馨に取り入り、明治4年(1871)に「新貨幣為替御用」(金銀の地金を受け取って新貨幣を渡し、受け取った地金を造幣局に送る役目)に三井が独占的に拝命することに成功します。三井は「政商」と、かしていきました。1872年、明治政府の財政を握っていた井上馨から「三井家は呉服業を分離して銀行設立に専念せよ」との内命を受けます。そこで三井家は越後屋呉服店(現・三越は、三井と越後屋の一字ずつを取って命名された)を形式上切り離し1876年に私立銀行・三井銀行を設立した。この少し前から、高棟は同族の青年達と銀行業務等を、学ぶべくアメリカに留学します。この間に、三井は次なる変革に迫られます。三野村を中心に改革を進めていきましたが、1877年に三野村が死去すると、また旧体制に復し1890年、時代の改革に遅れを取った三井銀行は、不況のあおりを受け、多額の不良債権を抱え込むことになります。この難局を乗り切るために、さらに外部から人材を招致せざるを得なくなり、福沢諭吉の甥・中上川彦次郎(大磯に別邸を構え、現在はご子孫が暮らしています)に白羽の矢が立てられました。彼は、豊前(現・大分県)中津藩士の子に生まれ慶應義塾を卒業後、留学先の英国で、外遊中であった井上馨の信頼を得て、1891年に井上の推挙で三井銀行理事に就任しました。その長女と結婚したのが、池田成彬(大磯の別邸は現・滄浪閣の隣の建物です)です。次回詳しくお話します。
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