明治34年6月から11月にかけて久弥は欧米を視察していました。英国に留学する弟達と、わが国建築界の先駆者の1人曽禰達蔵(明治23年三菱入社)を帯同して、一行は初航海の日本郵船の加賀丸でバンクーバーに渡った。そんな頃、美喜は生まれました。名の謂れになった大祖母(美和)は三菱を興した祖父・弥太郎の母で良く出来た人でした。岩崎家に嫁してから死ぬ日まで毎日、日記を書き続けて当時「女は教育はいらぬ」と言われていた時に、半紙で綴じたものに筆で日記を書き続け、それが後々、岩崎家の家憲となりました。残念なことに、美喜が生まれる1年前に、現在の大磯のトンネル(陽和洞)を抜けた地で亡くなりました。祖母(喜勢)は、驚くべき忍耐強さと、どんな苦しみも顔に出さない人でした。美喜が嫁ぐまでの、20年余りの間、祖母は夜、美喜を話し相手に古い話を繰り返し聞かせました。今日の彼女の道しるべともなり、人生観の基礎を作り上げました。エリザベス・サンダース・ホームを設立した時も、世間からは財閥のお嬢さんの我儘だの、思い付きだの言われました。岩崎家の教育はとても厳しく、驚くほど質素です。物を無駄にしない事。物を大切にする事。それを作った人々に感謝を忘れない事。ホームの子供達の教育にも生きています。蚕も飼っていました。それは「蚕を飼って糸をとり、つむいで織ることをしなければ、絹の着物を着る資格が無いのだ」と、それも実践しました。現在のホームの事務所前あたりは、昔は桑畑でした。叔父の弥之助が、明治41年に亡くなった後、父・久弥が大磯の地を相続してからは、頻繁に大磯に行きました。美喜11歳の時、東京で百日咳が流行り,美喜を始め兄弟もその病にかかり,大磯に静養に行った折、有る事がきっかけでキリスト教へと目覚めます。その思いは祖母の反対にあい、お茶の水高等女子師範学校を15歳で退学させられます。祖母は、学校に行くことで異教徒に目覚めたと思い、心配のあまり自宅での勉強へと切り替えました。その思いは、年頃になっても消えず、結婚相手の条件としてクリスチャンで外交官の澤田廉三に白羽の矢が立ちました。その後46歳の時、ホーム設立へと繋がり、その11年前に澤田美喜記念館の展示・隠れキリシタンの遺物収集を始めました。コロナで昨年の2月から約1年間、澤田美喜記念館の一般公開が有りません。まだまだ目にしてないものが一杯あります。コロナ自粛解除後の公開を楽しみにしています。
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