岩崎久彌

一家は東京に移り、久彌は慶応義塾幼稚舎に入学します。明治8年から3年間、福沢諭吉の薫陶を受け福沢は教室で歴史や日本外史を講義するとともに、生徒達を時々私邸に呼んでは、ご馳走をし公私にわたって指導しました。

久彌は、湯島の東京の屋敷を出て、三田の借家で慶應義塾の卒業生でもある親戚の豊川良平(弥太郎の従弟で幼名・小野春彌ですが、豊臣秀吉の豊、徳川家康の川、漢王朝の智将・張良の良、と陳平の平を取って改名した方です。~凄い)の監督のもとに生活します。後に、三菱の管事(社長に次ぐ立場)になり、久彌を支えていく人です。

この号は、父・彌太郎が久彌を三菱で働く為の人材に育てるべく教育路線を引いていくお話です。その為に色々な分野から優秀な人材を集め、久彌だけでなく今後三菱を支えるための人材を育てるのが彌太郎の教育理念です。

福沢の慶應義塾をモデルにして「自己に必要とする人物は、自ら養成する」として、三菱商業学校を神田錦町に設立しました。森下校長を始め、多くの教師が慶應義塾から招かれました。教師の中には、荘田平五郎(後に三菱の管事・豊川と一緒に久彌を支えた人です)、馬場辰猪(自由民権運動家)、友人には、福沢の長男・一太郎、次男・捨次郎、がいました。久彌は、明治1112歳の時、彌太郎が三菱商業学校を開設したので、久彌は慶應義塾を退学し同校へ入学しました。予備科3年、本科2年。本科の修了者にはさらに専科で1年間、銀行・船舶・保険・簿記を実習させます。英会話・英作文・作文・十八史略・和洋算術・和洋習字および簿記を学び、また慶應義塾で使っている英文テキスト・翻訳を用いて経済学・商業史・商法・地理・米国史・万国史などの授業が有りました。明治14年に久彌は三田から新たに駿河台東紅梅町に創られた学寮に移った。土佐藩出身の大石正巳(板垣退助の立志社に学んだ自由民権運動家。大隈内閣で農商務相)が監督となり、質素剛健を旨として、みだりに帰宅することは許されませんでした。

たまに久彌が実家に戻ると、彌太郎は袴を着け応接間で会い、勉強の様子を一言、二言尋ね、それについて訓戒を与え、久彌は寮に帰ります。後学寮は、本郷龍岡町に移り、雛鳳館(すいほうかん)と称します。

久彌の子供達も、15歳を迎えるとここで暮らします。この制度は、久彌の孫の代で終焉を迎え、「人間つくり」の場が無くなったのは、残念です。次回は、久彌渡米するです。