岩崎久彌

今回は三代目・久彌です。慶応元年825日(1865)、土佐国安芸郡井ノ口村(現・高知県安芸市井ノ口)に、地下浪人岩崎彌太郎・喜勢夫妻の長男として生まれます。前回・岩崎彌太郎の時に詳しくお話しできなかった祖先のお話をしてみます。

岩崎家は甲斐源氏・武田氏の末裔で、土佐に移り住んで安芸市に、のち長宗我部氏に仕えました。江戸中期には山内氏の下で土佐藩の郷士となりましたが、彌太郎の曽祖父の時代に生活に困り郷士職を売ってしまい地下浪人になりました。

久彌が生まれたのはまさに幕末の激動期でした。江戸幕府と薩長勢力との対立は深刻化して、久彌の誕生の前年、元治元年(1864)には第1次長州征討や四国艦隊の下関砲撃がありました。慶応2年には坂本龍馬の周旋により薩長連合が成立、一方幕藩体制は混迷を極め、第2次長州征討は失敗しました。

徳川慶喜が土佐藩主・山内豊信の建白を受けて朝廷に大政奉還を申し出たのが慶応3年、王政復古の大号令が発せられ、翌年明治維新となりました。久彌・2歳半でした。

幼年時代を土佐の井ノ口村で送った久弥でしたが、明治45歳の時、大阪の父の指示で祖父母を含む一家は高知城下に移り住みます。この頃久彌は祖父彌次郎に読み書きを受けます。祖母美和は手記に、祖父が熱心に教えた様子を書いています。

明治6年に、三菱商会を名乗った彌太郎の海運会社は多忙を極めていましたが、家族は大阪に合流しました。祖父母も含めて家族が一緒に住むのは4年振り、久彌が7歳の時です。昨年大坂に行って、この地を見てきました。現在は、大阪・土佐稲荷神社の一角に碑が残っています。

父・彌太郎と母・喜勢との間の子は久弥と長姉・春路と、妹・磯路の3人です。でも久弥は10人兄弟の長男、弟は豊彌(養子)、秀彌、康彌、正彌の4人、姉妹は富子、雅子、照子の3人です。養子1人と庶子(本妻以外の子)が6人もいました。その全ての子を引き取り母・喜勢は育てました。成人してからの久弥はこの母の悲しみを忘れませんでした。

やがて、三菱は東京に本社を移しましたので、1年半後、一家は東京へ移り、湯島天神の隣の屋敷で、現在もレンガ塀の跡が残っているそうです。

久弥は、姉春路とともに、短期間ですが横浜のフランス女性(マダム・サラベル)の私塾に後藤象二郎の紹介で通い始めます。今回はここまで、次回は久彌がどんな人間として育っていくのでしょうか?