兄の遺志を継いだ2代目弥之助は、富国強兵・殖産興業の追い風を受けて、「海から陸へ」事業の転換を図りました。高島炭鉱に加え筑豊の炭鉱を次々に傘下に収めました。
幕末以来、佐賀藩がグラバーと共同で採掘運営していましたが、グラバーは明治3年(1870)に倒産。明治7年に官営化されますが、11月に後藤象二郎へ払い下げられました。
後藤は炭坑社を設立し経営しますが、負債がかさみ、明治11年この窮状に福沢諭吉や大隈重信が仲介し、三菱への引き受け交渉を開始。負債額の多さに交渉は難航しますが、明治14年3月にようやく買収契約が結ばれました。
三菱はこの高島炭鉱をはじめとして、端島炭鉱(現・軍艦島)筑豊・唐津などを順次買収し、事業多角化の有力な資金源としました。
明治19年に開削が始まった端島炭鉱は、明治23年に三菱が譲り受け、本格的な操業を行いました。
操業の拡大にしたがって、採炭に関係する職員及び家族の移住も増え、大正期には日本初の鉄筋コンクリート造の高層住宅が建てられました。島の形が戦艦土佐に似ていることから軍艦島とも呼ばれました。
昭和49年閉山しました。閉山以降、島を離れた島民の生活がそのまま残された廃墟の島となりましたが、平成21年から観光目的での上陸が許可されました。
「別冊少年マガジン」に連載の「進撃の巨人」の実写版が映画化され撮影の舞台になりました。2015年7月に世界遺産に登録され、不思議なロマン漂う空間になっています。また、ぜひ行きたい所です。
明治23年に本格的な操業が始まりましたが、ここで、またもや政府から丸の内の土地購入の打診がありました。のちの「三菱の三大買い物」の一つに挙げられます。
他の2つは、兄・弥太郎が外国人から上海航路(84万円)、後藤象二郎がらの高島炭鉱(100万円)、そしてこの丸の内(120万円)。三菱といえば、丸の内界隈に本社ビルが林立し、通称「三菱村」と呼ばれるビジネス街のこの基礎を作ったのも弥之助です。
明治政府が丸の内の陸軍用地一括売却を画策したことにあります。
しかし、あまりにも巨額だったために購入希望者がおらず、大蔵大臣(松方正義)が弥之助に購入を懇請しました。三菱の重役・荘田平五郎に相談。ロンドンのビジネス街のような近代的なオフィス街を建設・企画して購入を進言しました。
当時は籔だたみの荒れ地だったので、こんな場所どうするのですかと聞かれ「ナニ、竹を植えて、虎でも買うさ」と放言したとか。また次回。
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